岩代のくに、岩代の歴史

岩代の地勢

岩代は、福島県二本松市の南東部にあって、東経140度29分2秒から140度41分23秒、北緯37度29分から37度35分21秒の間に位置しています。東西に長く、中央部がくびれて、ひょうたん状の地形となっています。
東部は阿武隈山地に属し、中部は山麓地形を呈しており、西部には丘陵地形が発達しています。
東部山麓地域には1000メートル前後の山々が連なり、山腹斜面は開発されて牧場として利用されています。
岩代には三つの丘陵地形 ―針道丘陵、小浜丘陵、二本松丘陵ー があり、それぞれの丘陵地に集落が点在しています。

岩代の水系

岩代を流れている主な河川は3つです。
東部を源流とする口太(くちぶと)川(全長27キロメートル)
移ヶ岳を源流とする移(うつし)川(全長41キロメートル)
三春町を源流とする小浜(おばま)川(全長13キロメートル)
この3つの水系は岩代町の水がめであり、口太川は旭地区を縦断し、移川は新殿地区を横断し、小浜川は中心市街地を割って流れています。

岩代の地質

地質の大部分は、火成岩類から成っています。その中でも広く分布しているのが花崗岩類で、ほかは閃緑岩か斑れい岩です。
これらの岩石類は、阿武隈山地を形成している火成岩類に属しており、岩代町の基盤岩となっています。形成時期で最も古いのは「古生代」とされています。

岩代の気候

阿武隈山地は起伏に富んだ地形で、気候もその影響を受けています。
気温の最も低い時期は1月下旬から2月上旬で、最も高い時期は7月下旬から8月中旬です。
一日の最高気温が30℃を超える真夏日の日数は、県内でも比較的多いほうです。
これに対して真冬日はわずか2日ですが、かなり冷え込む地域でもあります。
年間降水量は、県内でも最も少ない地域の一つです。

岩代の生物

岩代の植物帯は温帯に属し、北西季節風と奥羽山脈の影響による太平洋気候区の植物が多く生息しています。しかし、日山の山頂を除く森林の多くは伐採され、自然の植物群がますます少なくなってきているのが現状です。そうした中で、日山の標高860メートル周辺には貴重なブナの自然林、さらにイヌシデ林が残されています。低地では小浜丘陵を中心にアカマツ林が点在しています。草原・原野の占有面積が広いため、植物や昆虫類の種類が豊富です。また実をつける樹木が多く、渡り鳥の経路にもなっています。

塚と古墳の存在

岩代には古墳に類似した小さな塚(壇)が各地に存在しています。大半は、直径2メートル前後、高さ1メートル弱の極小の土盛で、供養のための塚であったと思われます。
その中で、上太田六大壇は直径10メートル、高さ2.5メートルと古墳を想起させる大きさです。

縄文の暮らし

岩代では縄文時代のものと見られる遺跡が30か所ほど発見されています。出土する土器、石棒、石斧、矢じりなどからして、人々の住居は竪穴式が主流で、10~15棟が一つの単位として集落を形成していたようです。
高稲場遺跡(百目木字岩下)から概観すると、当時の人々は、春夏秋と野山の実りや川の魚を獲っていたと思われます。特に秋に狩る木の実やきのこ、遡上してくる鮭などは、冬季の貴重な保存食として加工もされていたことでしょう。四季に密着した生活の中で、一年という単位が生活の一つのサイクルとして定着していったと考えられます。

自然崇拝への回帰

古代、人々の生活基盤は、自然崇拝の原始的信仰に支えられていました。そうした自然への畏敬の念は、現代と比べものにならない重要な意味を持ち、やがて”祈り”という行為が生まれたのかもしれません。そして生活の中に根づいた人々と自然崇拝(神)との接点は、悠久の時を超え、御幣、鳥居、祓い、直会などの形で現代に生きています。
大和朝廷のもと、現代の岩代地域の支配は安積国造にありました。
740年ごろ(奈良時代)は、地方行政の単位として、国・郡・郷制がしかれ、この地域は「佐戸郷」と呼ばれていました。「郷」は現在の「村」に相当します。
延喜6(906)年の律令には「安達郡を置く」という記述があります。実際のところ確かな証拠がなく、真実はまさに沈黙の中とも言えますが、この地域の郷を束ねる行政郡がすでにできていたことを想うだけでも感慨深いものがあります。

新殿神社の太々神楽(だいだいかぐら)、水雲神社の太々神楽、杉沢三渡神社の太々神楽、御田植え祭、田沢熊野神社の太々神楽など、岩代には今も数多くの自然崇拝の名残が行事として受け継がれています。

鎌倉時代の岩代郷

岩代地域を治めたとみられる安達荘の成立は、仁平元(1151)年と言われています。平安末期、荘園化の波は、この地域にも押し寄せました。
鎌倉時代に入ると、源頼朝の配下・安達盛長が岩代郷を所轄していたと考えられます。平安末期から鎌倉初期にかけての四本松地方の領主については、確かな資料は少ないのですが、源義家の配下・伴助兼が鎮将となり、治暦元(1065)年、住吉山に城を構え四本松城と称したと伝えられています。その後、鎌倉幕府の衰退や新興武士団の台頭など幾多の変遷を経て、この地方も戦国時代へと突入していきました。

大内氏と伊達政宗

文明3(1471)年、石橋氏の家臣・大内晴継がこの地に小浜城を築きました。
また、天正8(1580)年、大内備前が塩松郷を領し、宮森城主となりました。
天正13(1585)年、伊達政宗が大内氏を亡ぼして小浜城に入り、下館と称しました。
政宗の父・輝宗は宮森城に入り、上館と称しました。
百目木城の築城については詳細が定かではありませんが、応永年間(1394~1428年)は石川盛光が城主だったと言われています。

小浜城下の町

戦国期、小浜城は存在していましたが、人々が暮らす集落としては、小浜村ではなく、西勝田村が成田村に属する形で町場を形成していたと考えられます。ちなみに、小浜城の大手門は、現在の岩代支所のあたりにありました。
東禅寺、法楽寺が天文年間、西念寺が天正年間の創建とするならば、大内氏時代の小浜城下の町曲輪を固める役割をも果たしていたと考えられます。

 

 

 

江戸幕府のもとで

戦国の雄、伊達政宗の生涯において、岩代は、大内備前の寝返り、父輝宗の最期など特別な意味のある地でした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置は戦国時代の終結を意味しています。
当時の四本松城の知行は、25,000石でした。ちなみに二本松城は18,000石と言われています。
宮森城・小浜城は独立した権限の領主ではなく、会津若松城や二本松城の支城としての存在となり、明治維新の廃藩置県まで続きました。
二本松藩の郷村支配は下表の通りです。各組には、70石~150石格の武士が代官として任命されています。

宮森村
414石
西勝田村
1308石
長折村
1369石
上太田村
1515石
西新殿村
826石
東新殿村
806石
杉沢村
618石
初森村
79石
百目木村
996石
成田村
745石
※文禄3年(1594)の目録による
小浜組 小浜村
228石
上長折村
791石
下長折村
733石
西勝田村
1366石
小浜成田村
886石
針道組 西新殿村
1264石
東新殿村
954石
杉沢村
1088石
茂原村
575石
百目木村
764石
田沢村
1486石
上太田村
1617石
糠沢組 初森村
228石
※享保年間(1716~1718)

戊辰と維新

幕末、伊達郡の養蚕好況の影響は、小浜・針道両組を賑わせていましたが、二本松藩の財政は窮乏していました。百姓一揆も多発していました。
そうした中、薩摩・長州・土佐を主軸とする倒幕軍が東上し、奥州の天地は一大戦火に包まれました。この地方も激動の渦の中にあったに違いありません。そうして慶応4(1868)年、会津藩の降伏によって戦争は終わりました。
この戊辰の血戦は、近代日本への脱皮を図る、歴史の大きな転換ともなったのです。
明治前期の岩代町は、宮守村(小浜村)、小浜成田村、西勝田村、上長折村、下長折村、西新殿村、東新殿村、杉沢村、初森村、田沢村、百目木村、茂原村の12ヶ村と上太田村の一部にあたる地域でした。人口は小浜村が最も多く、1,593人と記録されています。全人口は約9,000人と推定されています。明治22(1889)年4月1日の町村制施工と同時に、小浜・新殿・旭・大田村が誕生し、その後、明治34(1901)年に小浜村は町制を施行し、小浜町となりました。

義務教育の成立

明治33(1900)年、第三次小学校令が施行され、四年限の義務教育がスタートしました。
国語の教科が生まれたのもこの時です。国体の発露として、元旦・天長節・紀元節の儀式、教育勅語、君が代の実施が求められました。
大正3(1914)年の第一次世界大戦により、国は好況を呈し、資本主義経済の発展が進みました。農山村は労働力の供給地としての役割を担っていましたが、一部の”金回りの良さ”に反比例して、人々は日々の生活に疲弊していました。当時の岩代町も例外ではなかったようです。大正4(1915)年に米1升が12銭だったものが、大正7(1918)年には37銭と異常高となり、米騒動も起きています。

初の国勢調査

世界の五大国に仲間入りした日本は、近代化のために、大正9(1920)年、第1回の国勢調査を実施しました。当時の小浜町の人口は8,185人でした。

戦争への序曲

昭和5(1930)年の新殿村を例示すると、総世帯数658戸のうち農家が528戸で、純農村であると言えます。農業生産額は1戸当たり552円でした。
不況が長引く中での旭村の納税状況は、世帯数513戸のうち未納世帯235戸。昭和9(1934)年を前後にこの地方は凶作地となり、戦時体制の影響も加わって、困窮生活を強いられる世帯も少なくありませんでした。
昭和12(1937)年の日中両国の衝突を契機に、日本は長期的大規模な戦争へと突入。大政翼賛会が結成され、大日本帝国婦人会や部落会までもその傘下に統制され、軍国主義一色となりました。
本土決戦を想定した国民義勇軍の編成もなされ、町民も老若男女を問わず竹やりの訓練にかり出されました。
物資統制の中で、昭和20(1945)年、小浜町の中心街で大火が発生。住宅・非住宅あわせて338棟が全焼し、当時で200万円という莫大な被害が出ました。

戦後の復興

ポツダム宣言を受諾して、戦争は終結しました。荒廃した国土の中で、軍国主義から民主主義へ転換がなされ、国民の新たな努力が始まりました。
昭和21(1946)年に日本国憲法が公布され、新たな普通選挙法や6・3制の教育制度も生まれました。その後、朝鮮戦争による特需景気もあり、日本は驚異的な復興を遂げることになります。
さまざまな制度や組織が変革される中で、最も大きな改革は、人々の精神と行動の変容でした。懸命に模索しながら戦後の混乱を乗り越え、そして町も新しい発展の時代へ向かっていきました。

岩代町の誕生

昭和28年9月1日に公布された町村合併促進法は、第二次世界大戦における地方行政全般の民主化に伴う住民負担の増大を改革しようとするものでした。政府は行政事務の再配分を勧告しましたが、その中で全国の小規模市町村を人口8千人から1万人程度を標準として合併することを示唆し、行政能率の向上と合理化を図ることを決めました。これが実現すれば全国の市町村数8245が、3分の1の3373に減少するというものです。
同法は3か年の時限法であり、県内・郡内市町村の合併にかかわる動きが伝わってくるにつれ、さらには町村当局の主催する部落懇談会・パンフレットの各戸配付など合併の必要性が周知されたこともあって、その気運が高まっていきました。諸々の思惑や地理的要因などがからみあい、困難な面もありましたが、小浜町、新殿村、旭村と大田村の一部が合併して、昭和30年1月1日、新生「岩代町」が誕生しました。役場は小浜に設置され、町名は一般公募の中から「岩代町」とすることが決定しました。
合併時の戸数は2,577戸、人口1万6,950人、町の面積は96.72平方キロメートルでした (その後、昭和39年に東和町との境界変更が認められ、98.37平方キロメートルとなりました)。
新生岩代町は、10ヵ年に及ぶ建設計画を策定し、活力あるまちづくりに着手しました。人口、雇用、所得・生活水準、産業計画にまで多岐にわたり具体的に盛り込まれた計画は、町振興の大きな原動力となりました。そして、社会構造の変化とともに、その後も振興計画が立てられ、豊かな住みよい町づくりが着々と進められてきました。

二本松市との合併

岩代町50年の歴史が幕を閉じ、新市町村合併法のもと、旧二本松市・旧岩代町・旧安達町・旧東和町の4市町から成る “新生・二本松市” の一員として新たな一歩を踏み出したのは平成17(2005)年12月1日でした。岩代という市町名は消えましたが、今も <岩代地区>として人々に親しまれ、数多くの観光資源や文化財を有しています。